ドク・オーチャンの独り言(その18)


--春の小川の子ブナたち--

 今月もドク・オーチャンの、子どもの頃の春のお話しです。

 小さい頃、家を出て何十歩も歩かないうちに、坂を走り降りておよそ10メートルほどの高低差で一段下になっている田んぼの真ん中に小川が流れていました。もともと田んぼの灌漑用の用水路で、何代も前のご先祖が山のふもとに作った大きな堤(ツツミ:灌漑用の大きな貯水池)から隧道(トンネル)を掘ったりして延々と引いてきた川でしたが、かなり昔に作られたもので、長い年数を経てもはやあまり人の手がかかってない感じになってしまった、自然がいっぱいの小川でした。

 当時の小川はまだ大小の石組みのぎこちない岸造りで、石と石との間の「まま」という所に小魚やその他の淡水の小動物たちが身を潜められる場所がいくらでもありました。春先の小川は雪解け水をたくさん集めて水かさが増している割には、大雨の後のようには濁っていることはなく、ひんやりと冷たいきれいに澄んだ水が流れていました。

 そのため、水の中はよく透き通っていて、それこそベージュにわずかに黄緑色がかったすばしこい小ブナメダカたちの群れが流れの真ん中を悠々と川上を向いて泳いでいるようすや、また川底をじっとながめていると沢ガニカラス貝、カワニナ、タニシ、ドジョウなどが砂や泥の陰に隠れているのがよく分かるものでした。少し大きめの小ブナをみつけたり、あるいはずっと川上の堤(ツツミ)から流れ降りてきたのかも知れないような青や赤の子どものコイなどを見つけると、俄然胸がワクワク・ドキドキしたものでした。

 早速、丘を駆け上がって家から作って貰ったばかりの魚採り用の小ザル(あのドジョウすくいのザルです)と、小さめのブリキのバケツを両手にぶら下げて坂を駆け下り、魚たちの天国である春の小川に傍若無人に踏み込んで所かまわずザルで水をすくい上げたものでした。すると、小さな魚たちがザルの中でピチピチと元気に跳ね回り、筆者は大きめな魚を選んで手づかみでブリキのバケツに無造作に放り込んだものでした。そしてバケツの中で泳ぎ回る哀れな小魚たちをにんまりとのぞき込みながら家に持って帰って来るのでした。

 当時は体裁の良いアクリルの水槽も無ければまともな金魚鉢もありませんでしたし、ましてや手頃な魚の餌などもありません。バケツを湯殿の廊下に置いたとたん、もうすぐに気が別に行ってしまい、次の日には別のことに熱中してしまう幼い王様は、もうバケツの中で喘ぐ小魚たちの悲鳴などはつゆも聞こえなくなってしまうのでした。数日して、母親に注意されてやっと見てみると、そのバケツの中は白い腹を上に向けて生臭い水に浮いている哀れな小魚たちの死骸で一杯になっているのでした。

 今考えると、あの時どれだけ多くの小魚たちを死なしてしまったのか、呆れてしまう位です。あの小さな生き物たちは、幼かった筆者の胸を春にワクワクさせてくれるためにそこに居てくれたのかも知れません。今、どこに行ってもそんな、ただ子どもの心をワクワクさせてくれるために待っていてくれるような、かわいらしい小さな生き物たちには二度と出会うことはできません。

 こういうかわいい小魚たちや昆虫たちは、傲慢な子どもたちに、命のはかなさ、大切さをその身をもって教えてくれるために、春の小川や夏の野原や森でじっと待っていてくれたのではないかと思ってしまうのです。小さい頃を懐かしんでみるのも良いのですが、よくよく考えてみると、楽しい思いの中にかなり残虐な行為も含まれているのです。自然は幼い心の中に、胸をときめかせてくれるようなキラキラと輝く記憶を残してくれます。しかし、その裏には、そのために犠牲になった数え切れない位の小さな命があるのです。

 今の子どもたちの日常の遊びやTVゲームには、このような裏で犠牲になってくれるはかない命の存在はほとんどありません。どんなに残虐な殺し方をしたところで、それはバーチュアル・リアリティーの架空の世界の出来事でしかありません。罪悪感などつゆも覚えずに簡単に殺人や生き物を殺してしまえるのです。こういう実際の幼い心をときめかす体験そのものと、架空の世界でのやはりハラハラ・ドキドキはさせてくれるのですが疑似のものでしかない体験との違いが、子どもたちの潜在意識の中で、どのように人生観を形成して行く上での違いとして組み込まれていくものか、非常に興味が湧くところです。

(写真はレンゲソウです)



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