--山里に起きた大地震--
新潟県中越地方に大地震が起きてはや2週間が経ちました。筆者の所にも、地震のお見舞いをいただきまして、誠にありがとうございます。
幸い、同じ県内でも新潟市内は大きく揺れただけでほとんど被害はありませんでした。それでも、最初の地震の時は筆者自身スーパーで買い物中だったので、陳列棚の瓶詰めがいくつか床に落ちて割れました。
また筆者の家内の実家が十日町市にあり、比較的新しい家だったのですが、窓のアルミサッシがほとんど全部外に飛び出して、窓が閉まらなくなっていました。食器棚の中からほとんどの食器が一斉に飛び出し、台所の床は割れた食器で足の踏み場がなかったそうです。仏様や神棚も飛び出して来たそうです。同市ではスナック・バーの屋根が落ちて下敷きになって亡くなられた方もあります。
地震の一週間後に、かなり大回りをして長野県境から信濃川沿いの国道を通って家内の実家にお見舞いに行ってきました。ふだんは北陸道・関越道というハイウェイをとばして簡単に行けたところが、4倍近い時間をかけてやっとたどり着き、失ったものがどれだけ便利なものだったのかを実感しました。十日町市内は至る所に進入禁止の立て札を付けた囲い縄が張られていて、崩れそうな家やビルや山が、なかなか対処が難しく未だ手つかずで放ってありました。諏訪神社の山が崩落寸前のようで、大きな樹が傾いていて、雨で崩れないようにと青いビニール・シートが何枚も敷き詰められ山肌を覆っていて何とも痛々しい姿でした。山裾近くの家屋には非難命令が出され、侵入禁止区域になって、近くの小学校が避難所になっていました。また市内の繁華街ではビルの壁面に亀裂が入り、壁が剥がれ落ちて、やはりその周りは立ち入り禁止区域になっていました。
2週間経った今も、時々余震があります。家内の両親は、まだこの1週間前の時点では、余震が怖くて夜は一階の廊下で窓を開けて寝ていると言っていました。グラッと来たらすぐに庭に逃げられるようにしておくためだということでした。庭にはテントが張ってありましたが、さすがにもうテント生活は疲れたとのことでした。それでも自宅で寝ることができるのはとても幸いで、今もまだ避難所生活を強いられている方たちの苦労がよく理解できるし、もっと大きなものだろうと言っていました。
筆者は、40年前の新潟地震の際にはまだ郷里の十日町市におり、北の方から不気味な地鳴りと共にやってくる地震波を感じました。40年後に今度は新潟市に住んでいて、逆にその郷里の方で大地震が起ころうとは夢にも思いませんでした。また、10年前の阪神淡路大震災の時は、京都で寝ていて強い地震を感じました。直下ではないのですが、どうもいつも大きな地震のそばにたまたま巡り合わせで住んでいるようです。
今回の地震のあった地方は、信濃川と魚野川とが合流するあたりの山紫水明のとても景色の良い山里でした。いつもは、この時期に一斉に紅葉が楽しめ、足早にやってくる雪の季節の準備にせわしない頃なのですが、今年は紅葉も色あせてしまっているようです。人間にとって美しく見える大自然が、人間に対して常に味方になってくれるとは限りません。大自然にとって、人間などはその辺をうろうろしている熊たちと同様なちっぽけな生き物でしかないのです。
文明の最先端を象徴していた新幹線も、今回の地震には危機一髪の状態で安全性の脆さを露呈することになってしまいました。決して大自然をあなどってはならないのです。常に畏敬の念を持って接するような姿勢が大切だと言うことを、今回の地震は語っているのかも知れません。被災された方たちの一日も早い復旧とご健康を祈願し、また亡くなられた方のご冥福をお祈りしたいと思います。
どうか山紫水明の故郷の山里に明るい春が訪れますように。
(写真は向井潤吉画伯の懐かしい山里の風景画の一つ、秩父秋日という作品です)