ドク・オーチャン:パートII September 2006
--秋祭りの神様--
子どもの頃、今頃は秋祭りの最中でした。夏休みももうすぐ終わり、青空には高く秋のすじ雲が刷毛で描いたように何本も延び、ススキの穂には赤とんぼが止まり、あれほどうるさかった蝉の声の代わりに草むらの秋の虫が泣き出すと、何だかもの悲しくなるような季節でした。遠くから秋祭りの笛や太鼓、民謡の音が流れてきて、祖父が毎年家の軒先に大きな提灯を燈してくれました。今でも何かの拍子に、この頃に聞いた民謡の音色がしつこく耳鳴りのように聞こえてくることがあります。夜になると、この提灯越しに、祭りの一大イベントである花火が大空に広がるのが、蚊取り線香の鼻を突く匂いとパタパタといううちわの音と一緒に、幼い頃の記憶としてよみがえります。
当時、秋祭りには、まだ「氏神様」の気配が少しはあったように思われます。それは、祖父に連れられて村の神社にお参りに行ったり、病弱だった祖母が年に数回の行事に合わせて久しぶりに料理の腕を振るう時期で、祖父の好きだった昔ながらのお祭りのご馳走で、そういう新たかな気分がいやがおうにも盛り上がったものでした。そういう時、何だか神様がとても身近に感じられて、普段は全く忘れ去っているのに、自分たちをいつも見守っていてくれる「精霊」というものについて、子どもごころに少しだけ考えてみたことがあったように思われます。
昔は、こういう年に幾度かの楽しみ、あるいは神様という超自然的な厳粛な存在との交流のために、人間たちは日々一生懸命に働いていたのでしょう。ところが、先の敗戦で、日本の氏神様たちは手痛い打撃を受け、村の鎮守の威厳は地に落ちてしまいました。当時の日本人が身勝手に信じて疑わなかった「神風」なるものを吹かして敵を蹴散らしてくれなかったという理由もあるのでしょう。しかし、日本の神々は、敢えて大日本帝国を崩壊させたのです。
この時の、日本の神々の消極的な選択は間違っていた訳ではありませんでした。その証拠として、現在の北朝鮮の惨状があるのです。日本の神々は、やはり究極のところ日本人を守ってくれたのではないでしょうか。しかし、残念なことに、敗戦国としての文化はほとんど否定され、戦勝国の、デリカシーの欠片も感じられないような?文化が押し寄せて来たのです。そして、戦後の好景気で日本人はあっという間に自分たちの神様を捨て去り、神様など居なくても自分たちが立派に発展してきたと、愚かにも自負して止まなくなってしまったのです。この愚かな増長の結果、現代の日本人の心の中に埋め尽くせない空洞が出来上がり、心の拠りどころを失った大人や子どもたちが、社会の中で身の置き場を求めてさ迷うようになってしまいました。
今でも、この時期にお神輿が村中を練り歩くお祭りはあります。しかし、そこにはもはや氏神様の気配はほとんど感じられません。たいていが、屋台の出店が立ち並ぶ本尊様の存在しない抜け殻のようなお祭りなのです。むしろ新興住宅街のカラオケ大会の方がよっぽど盛り上がっているようなのです。
で、今の日本のお祭りで最大規模の、それもしっかりした本尊様が現存するものは何かと言いますと、それは何といっても東京ディズニー・リゾートのそれなのです。毎晩のように繰り返されるお祭り騒ぎに、子どもも大人も飽くことなくリピーターとして訪れ、皆が大いに楽しんで帰っていきます。しかし、そこには、本来の意味の神様はいません。しいて言うなら、神様としての存在は、ミッキー・マウスでしょう。そこではもはや、人間の神は一匹のネズミなのです。
(写真は若冲のタイです)