ドク・オーチャンの独り言(その41)


ドク・オーチャン:パートII December 2006

--地デジといじめ--

 今年も、もう師走になってしまいました。今月は、あまり明るいお話しというわけにも行きませんが、ちょっと一緒に考えてみて下さい。

 最近のいじめ暴力も同じ様式があるように思えます。それは、そのような行為の程度の調整が利かないという点です。昔もいじめはありましたが、総じて程度が軽かったし、あまりしつこくもなかったように思えます。また一対多でやるような、程度のきつい卑怯なものは無かったように思えます。暴力についてもそのようだったと思います。つまり正義やモラルのお手本があって、手加減があったのです。今はそういうお手本がほとんど無いし、あっても馬鹿正直などと扱われ、およそ現実に即したものではないとして侮られてしまいます。したがって手加減が無いのです。

 もう一方で、この手加減ができないというのは、実際の体験が乏しいせいかも知れません。どの位の程度までは許容範囲、あるいは相手を深く傷つけないのかを体得していないのです。ですから、一対多でも実際卑怯だとも思わないし、相手を肉体的にも精神的にも思いっきり、完膚無きまでに打ちのめしてしまうまでやってしまうのでしょう。ほとんどの人が口をそろえて言うように、なるほど、いじめは昔からあったし、今後もなくなりはしないだろうとは思います。しかし、どこまでは許容範囲なのか。これを一般常識として身につけるような教育を徹底する必要はあるでしょう。単にいじめをなくそう、いじめたやつは処罰する、というだけでは禁酒法時代の密造酒やその密輸と同じように、その行為自体が潜伏してしまうだけではないでしょうか。

 想像力、他人の身になってその立場で考えてみる、他人の感情や意図を言外から読み取る、その場の雰囲気を酌んでこれを大切にする、などということができない、あるいは難しいような発達障害があります。これが、自閉性障害の特徴の一つであると言われています。いじめ暴力の当事者、加害者は、このような想像力が乏しいとも言えるでしょう。ということは、いじめ暴力の当事者、加害者は、このような自閉性障害の特徴、あるいは欠陥をもっているということになるのかも知れません。TV、VTR、TVゲーム、ケータイなどの現代の映像メディアは、子どもたちの豊かな想像力を萎縮させてしまったと言えるかも知れません。現代の映像メディアは、一見子どもたちに豊かな映像の世界を提供しているようでいて、実は子ども自身に本来備わるべきもっともっと豊かで無限の想像の世界、ファンタジーの世界を浸食し、代わりにすさんだ無の世界を拡げてしまったのではないでしょうか。

 最近の民放のバラエティ番組の内容は、ほとんどどれも同じように品の無い笑いを提供しているように思えてきます。ユーモアとかウィットなどという、上品な笑いを誘うような内容はほとんど無いようです。どぎつくグロテスクな、視覚と聴覚を直接に極端に激しく刺激するものばかりです。これでもかというほどの刺激の強さ、マシンガンのような情報の発信速度を競っているようです。受け手のことなどまるで考えていないのです。より協力にアピールができさえすればそれで良いのです。民放のアナウンサーの喋り方が、一言聞くだけでそのように聞こえます。TVのボリュームを絞らないとうるさく聴こえてしまいます。最近は、どうもその品のないどぎつく甲高い喋り方を、NHKのアナウンサーまで真似し出したようです。

 以前、TVを見過ぎると自閉症になると言い切って顰蹙を買った仲間の医者がいましたが、この意味の真髄は、もしかしたら正しいかも知れないように思えてきます。現代の映像メディアは、子どもたちに限りなく自閉性障害の特徴の一つを持たせようとするような影響力を、確かに及ぼしているのではないでしょうか。地デジが普及し、映像情報がより大量に正確に放送されようとしている時期に、もう一度映像メディアの功罪をあらためて検討し直す必要があるのではないでしょうか。

 誤解の無いように一言付け加えておきますが、本来の自閉性障害があるからといって、いじめ暴力の当事者になるわけではありません。却って被害者になってしまう場合が多いのです。

(写真はクラシックなクリスマスツリーです。何だか門松にも似てますね)



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