ドク・オーチャンの独り言(その7)


--アカデミー賞は千と千尋の神隠し--

 おめでとうございます!

 宮崎 駿監督の「千と千尋の神隠し」が第75回アメリカアカデミー賞長編アニメ部門で見事、最高栄誉を獲得しました。毎日戦争のニュースに明け暮れるこの暗い時勢に、日本の子ども文化を代表する作品が賞をいただいたことは、わずかでも光明を見出せる快挙と言えるでしょう。昨年のダブル・ノーベル賞以来の明るい話題を提供していただきました。

 「千と千尋・・」には、善人も悪人も出てきません。この点では善悪の差をしっかりと設定するようなアメリカ的な発想とはかなりに違っていて、その評価が難しい作品だったに違いありません。初めから善人と悪人とがはっきりと決まっているような設定ではなく、その場に応じて善人にもなるし悪人にもなるという、むしろヨーロッパ的な物語の設定に近いものだと思います。何だか得体の知れないおどろおどろしい者達が出て来るおとぎ話の世界、それが現実の人間界の危うさ、面白さと重複するところに、ストーリーの展開の楽しさが味わえるのでしょう。

 ところで宮崎アニメの主人公はいつも女の子です。女の子が主人公というと、何だか「ロリコン」という趣味がありそうに思えるのですが、実は、もしその逆に男の子を主人公にしてしまった場合にはどうなるかを考えると、その謎が解けるかも知れません。もし男の子が主人公だったとすれば、恐らくこれ程深みのある日本的なストーリーにはならなかったのではないでしょうか。男の子が主人公のストーリーは、どうも勧善懲悪に凝り固まって、初めから先が読めてしまうような単純なものになってしまいがちです。その例として、シュワルツネッガーの主演映画や「スター・ウォーズ」などの男が主人公のストーリーは、戦闘シーンは見応えがあるものの、他には何も後に残るものが無いと言っても良いでしょう。
 
 以前、宮崎さんが語っていた、彼自身がアニメに本腰を入れるきっかけを作った作品が、日本の長編アニメ第一号の「白蛇伝」と、ロシアのアニメ「雪の女王」とだったことは、筆者を大いに驚かせました。私自身も、この二つの作品を見て、当時大いに感動させられた想い出があるからです。残念ながら、私はマンガがそれほどうまくは描けなかったので、そちらの方面には進めませんでしたが、この二つの作品は、今見ても十分に見応えのある作品だったと思います。今、この二つの作品は、DVDに再編され簡単に入手できます。興味のある方は是非一度ご覧になってみて下さい。面白いですよ。
 
 ところでやはりこの二つの古典的作品の主人公は共に女の子、あるいは若い女性なのです。しかし男の子が主人公のアニメ・ストーリーに比べて何かしら心に残るものがあり、かえって単純な勧善懲悪ものの方が、見た回数が多いはずの割にはほとんど後に残っていないというのも不思議な気がします。男の子の行動パターンの方が何かと単純なせいなのかも知れません。これは今起こっている第二次イラク攻撃についても言えることだと思います。単純な男の発想なのです。もし、アメリカの大統領が女性であったなら、こういう勧善懲悪的な発想はしなかったことでしょう。この勧善懲悪の極みとして、とても皮肉な事実があります。昔の西部劇の悪者は、白人の駅馬車を襲うインディアンでした。しかし、本当の悪者はそのインディアンの平和な土地に傍若無人に攻め込んできた白人自身だったのです。

 これは私の偏見も大いにあるのでしょうが、日本には欧米にみられるようないわゆる子どもの文学がほとんど無いと言っても過言ではありません。なるほど、日本昔話などのおとぎ話はいろいろあるのですが、文学として耐えられるようなものはないでしょう。この点でも、宮崎アニメはもはや単なるアニメ(動画)の域をはるかに超えて、文学の域に達しているとも言えます。

 「千と千尋・・」の中で、「坊」と呼ばれる金太郎の腹掛けをしたでかい男の赤ちゃんが出てきます。これは恐らく今の甘やかされた男の子の象徴だろうと思います。父親不在で母親の近視眼的な甘い躾の育児の果てに出来上がった何でもだだをこねて欲求を通そうというミニ帝王です。このような育てられ方をした男の子が、とかく今話題のADHDなどと見間違われがちなことは、目下育児中のご両親や祖父母の方達にも肝に銘じておいていただきたいことです。

(写真はアプリコット・フェアリーの絵です)



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